浜口書庫

富江は

「さんごの歴史がある その1」

さんご写真

さんごの歴史がある

五島倶楽部67写真

さんごレリーフがついたトンネル

 

五島倶楽部67写真

富江の妙泉寺にある明治39年に起こった海難事故供養のための碑

 

五島倶楽部通信67紹介書籍珊瑚

現在は絶版となっている新田次郎「珊瑚」

 

五島倶楽部67写真

桜の名所でもある富江只狩山の新田次郎先生珊瑚の碑

 



浜口水産の本社がある福江島の富江町は、かってさんごで栄えた町でした。今でも町を歩けばさんご屋さんと、さんごをモチーフにした看板や標識を見つけることができます。
じつは浜口水産が所有していた漁船「濱栄丸」でも、さんご漁をしていた時期があります。
40年ほど前まで富江では、毎年お盆前に「さんご祭り」が行われていました。富江のさんご屋さんが小学校の体育館に一堂に会し、即売会をしていたのです。さんご祭りには全国から人が集まり、商店街にはたくさんの露店が立ち並び、大変な賑わいをみせていたそうです。
福江島の歴史とも、浜口水産の歴史とも、とても縁の深いさんご。そこで五島倶楽部通信では、今回から数回に分けてさんごについて特集をしていきたいと思います。

さんごの歴史
   西洋では古来より地中海でさんごが採れることから、さんごにまつわる様々な伝説や歴史が残されていますなかでも、十字軍の兵士たちがお守りとしてさんごを身につけていた話は有名です。
   東洋では金や銀と並ぶ宝石としてさんごは珍重されていました。日本においては、大和~奈良時代に中国の貿易によりシルクロードを渡って地中海産のさんごが伝来してきたものといわれています。
   日本のさんご漁の歴史は1812年、幕末の高知県・土佐から始まりました。しかし当時は一般の人々の採取・所持・販売が禁止されたため、本格的に採取されたのは明治以降になります。
   やがて土佐で採り尽くしてしまい、もう日本では採れないと思われていた矢先、五島列島の福江島の南西に位置する男女群島沖で、偶然にも漁師の釣り針にさんごがひっかかったのです。それは1886年(明治19年)のことでした。

さんごで栄えた町、富江
   その話が知れ渡ると、小さい漁港だった富江という町が、さんご漁の拠点として一気に世界的な脚光を浴びることになりました。
イタリアや中国などの外国から来た仲買人たちゃ、一攫千金を求めた九州や四国の各地の漁師たちが集いました。港には数百ものさんご船が並び、人口が増えて家が新築され、たくさんの漁師や加工職人、その家族が暮らしたそうです。
   ところで一時期は金を超える価格で取引されていたさんごは、当時どのくらいの価値があったのでしようか。給与所得者の年収が200~300円程度だった時代に、大きさや量によっては400円以上の値で取引されたそうですから、漁師にとってさんごはロマンだったといえるでしよう。


命がけのさんご漁
   しかしさんご漁は決して楽なものではありません。船のほかに舟夫の人件費がかかり、網や食糧といった消耗品も必要になります。
何より当時は10メートルほどの手漕ぎ船で港から70キロの沖合まで出ていました。1週間から10日ほど続く漁の大半は海上で過ごし、加えてさんごが採れるかどうかは運の要素もあるため、たいへん過酷なものでした。
   また、たびたび起こる海難事故によって大勢の漁師たちの命が失われました。
1906年(明治39年)には暴風雨によって700名以上の死者を出してしまいます1886年にさんごが発見され、1936年(昭和11年)にさんご漁が停止されるまでの50年間で、3000名以上がさんご漁で命を落としたといわれています。

富江が舞台の名作小説「珊瑚」
   この富江のさんご漁をテーマにした小説があります。新田次郎の「珊瑚」です。
もともと気象庁の職員だった新田次郎の自然現象への正確な知識と、史実に基づくための入念な取材、そしてフィクションとしての想像力が結実した名作です。
富江の只狩山には、地元のさんご彫刻師によって建立された新田氏を称える記念碑があります。
「珊瑚」を読んでから富江の町を歩くと、当時の町の様子がいきいきと浮かび上がってくるようですよ。